劉衛流
(りゅうえいりゅう)

 

劉龍公の中国拳法の正統 を継承する流派に劉衛流がある。清国は宣宗皇帝の道光年間に、那覇市久米村の仲井間筑登之

親雲上憲里によって仲井 間家にもたらされた憲法である。憲里は小宗筋に当たる叔父が当時は極めて栄達の頂点にあっ

た医者であり、また、姉 も産婆を務める裕福な家庭に生まれ、久米村人士の嗜みとして幼少の頃から修文錬武の道を

歩まされ、長じて(19 歳)北京に遊学する機会をえた。憲里は、やがて劉龍公門下に内弟子となる。その間の事情

はここでは詳らかにする 紙幅がないので略するとして、苦節数年不惜身命朝鍛夕錬ついに法伝の印可を許され、技術に

とどまらず武備誌、養生 法、刻付、拳勇心法の伝書をも授けられた。筆者(5代憲児)はそれらの巻物、書籍の類が、

押入れに収納されていた のを明確に記憶しているが、惜しいかな1944(昭和19)年の10*10空襲で持ち帰っ

た武器共々灰に帰してし まった。「清国での修業中に費やした金額は、今日の日本円に換算すれば恐らく数億円に値

するであろう。」と4代 憲孝はしばしば語ったものである。憲里は北京と琉球間をいくたびか往復しては印可料の工面

のために腐心した形跡が 家譜と共に借用書となって現存する。仲井間が一家を挙げて劉龍公直伝の兵法とも呼ぶべき

術技に固執したのは、家 憲として門外不出*一子相伝の流れに見ることができる。憲里の武術遊学が後に一家にどれほ

どの負担となって跳ね 返ってくるかは、予想できないことであったのであろう。まず3代憲忠は学問を修める財力を

奪われ、無学*文盲のま ま、ひたすらに憲里の技の修得に明け暮れながら家庭を存続させなくてはならなくなった。

一切の記録が残されてい ないのは、そのためである。折から中国は阿片戦争で英国に敗れ、劉龍公の消息も手がかりも

つかめないまま、自らも 廃藩置県のあおりをくって那覇を離れざるを得なくなった。劉龍公の存在がようとして不明

なのは当時の世情と憲忠 の無学*文盲に大きな因があると筆者は考えている。

 

4代憲孝は3代憲忠55 歳にして生まれている。筆者の父である。「武人は、威あって猛からず、真の力を蓄え無名人

を旨とすべし!」がモッ トーであった。それがあってか筆者への訓育は厳しく、血が水になれば闘いはそれまでよと

よく言われたものであ る。筆者は父にはどこにあっても敬語でしか接していない。のちに入門が許された「世界の

佐久本嗣男」も我々親子 の縦構造の厳しさには怖れをなしたと述懐したものである。4代目憲孝は沖縄師範学校時代、

大城朝恕、屋部憲通、花 城長茂らとも交流があったが、とりわけ宮城長順には目をかけられたようである。タケタノ

宮様の御台覧の折の演 武、林銑十郎大将来沖歓迎演武に一人中学生レベルで出場の機会が与えられたのは、宮城の

一声があったものと筆者 は考えている。憲孝はその頃から剣道にいたく興味をもち、終始石原昌直(沖縄を代表する

名だたる剣)にくっつい て武徳殿通いをなし、剣道は筆者への影響も少なからず及ぼした。国民学校に入学すると

竹刀の素振り200回が 日課となり、祖父は祖父で80歳を越しながら筆者に巻藁突きを強制しては悦に入っていた。

 

4代目憲孝は40歳近く になって道統の免許皆伝を許されたが、60歳になって一子相伝の流れを変え弟子を受け

入れた。それは家憲を軽 んじてのことではなく、門外不出の閉鎖性が時代の勢いに馴染まないと考えてのことであった。

4代目は「もはや空手は 世界のものになっている。沖縄が本場という錯覚に酔っている時ではない。」と言った。

全空連からの招待参加の 呼びかけ、十段位*範士号と相次いたが、4代憲孝は末子が重度の脳性麻痺に冒された

家庭的事情と、本人も軽 い脳出血に見舞われたため、全空連や沖縄体協の要請に応える事ができぬまま、享年79歳の

生涯を閉じた。


    


  憲児は1934(昭和 9)年に生を享け、否応なしに5代を継ぐ立場に立たされた。空手*古武道は戦後も健在で

あった祖父3代憲忠に手 ほどきを受け、4代*父憲孝に鍛え込まれた。小学5年12歳の頃1945(昭和20)年

である。憲孝は駐留軍よ り羽地田井等の孤児院の経営を任されていたが、稽古は砂利の敷きつめられた庭で行われた。

その建物は現存する。あ る日がっちりした風格の紳士が、一人の壮士風の男を連れて現れた。「宮城長順先生だぞ!

御挨拶申し上げない か!」憲孝が言った。壮士風の方は剛柔流の福地清幸であった。用談が済むと宮城は「何かやって

ごらん」と一手所望し た。歴史的大家に観てもらえる嬉しさと気恥ずかしさが交錯した中で、セーユンチンをやった。

「うむ、一中と商業では 私はこう教えたが、君の型は独特のところがあるから、お父さんの言うとおり稽古しなさい。

ではサンチンをやってご らん。」宮城長順は憲児の肩や腰、下半身を自ら締め方を手直ししながら、立ち去った。

前述の福地清幸は副院長 という肩書きで翌日からその孤児院に越してきた。孤児たちに練習をさせながら、時には

4代目と空手談義に時を 過ごしていた。父憲孝との稽古は高校卒業までで、5代目を継ぐべき重責を承知しながらも、

憲児は進学のため、家を 離れた。琉大を中退、東京外語大でやり直し、アメリカ留学、ドイツ研修と琉球文化を外から

眺めて、さて、家庭に落 ち着いた時は齢も30を越していた。間もなく沖縄県剣道連盟が「居合道」を導入した。

生来、刀槍類の好きな憲 児が、それにのめり込むのに逡巡はなかった。しかも佐久川憲勇範士という願ってもない先達

に恵まれた。かつ全剣道 派遣講師の紙本範士、富岡範士、富ヶ原範士に夢想神伝流をかなり叩き込まれた。第20回

全国居合道大会に六段の 部で出場、優勝した。20数回選手あるいは監督として全国大会へ出場し、七段では宮本

武蔵顕彰大会で武蔵賞、 大阪大会で最高賞、宇和島大会伊達賞を総ナメにした。順風満帆であった。

 
 

間もなく福岡の波止成徳 杖道範士に「杖道」をやらないかとさそいがかかった。もともと「棍」が根付いている。

武道となると、とびつく ように育ってきた。即座に沖剣連会長の許可を取りつけ、同好の士に呼びかけた。

およそ30人は集まった だろうか。1年も経つと5人ほどに減った。憲児の稽古があまりにも基本重視に過ぎ、

ほとんどの者が退屈して しまったのであろう。指導力の乏しさを自覚させられた。まさに好事魔多し。70歳を

目のあたりにして脳梗塞 で倒れた。言語障害、右半身麻痺、今もって毎月通院投薬の日が続いている。小康を

取り戻すと再び武道館へ 戻った。武と共に生き、武に死すことができれば武人冥利に尽きる。この信念にはいささかも

変わることはない。体力 は元に戻ることはあるまいが、今後が体究錬磨の正念場だという思いをいっそう深くした。

 

「杖道」は波止師に鞭打 たれながら何とか七段に到達した。父が死んで13回忌の追悼演武会を弟子たちが持

ってくれた。弟子たちは 佐久本嗣男を頂点に武門の遺風を竜鳳会として守っており、その熱意に報いてやりたかった。

その方法はたった一つ  武を追究することである。3代、4代の修練、品格、技法……あらゆる点で5代の及ぶ 域では

ない。が、やるしかこの 道はないのだ。未熟者は未熟なりの誠意がなくてはならない。稽古と人格、それがこの道に

求められたすべてである と思ってよい。さて、劉衛流はいわゆる空手と古武道の部が不離一体であることに大きな

特徴がある。次にそれぞ れについて解説しておきたい。

 

[ 空手(ムテイー ヌ  ホウー<無手の法>)]

 

1 基本術技

二十四歩*三十六*十 三*制引戦*壱百零八(現スーパーリンペー)

憲忠曰く「サンチンと セーサンは歌の上の句と下の句のようなもの、サンセールーはさまざまな基本技をふくんでいる

から、しっかり鍛え込む ことだ!そもそも三十六とは種々様々を象徴するところからもこれをないがしろにしては、

いくら手数を覚えても実 戦には役に立たぬ。サンチンは筋骨を締め込むのに不可欠である。セーサンは実戦的に体を

こなす役割を果たす。 セーユンチンはムチミの味を覚えさせてくれる……. 」と。

 

2 中級術技

巴球*オーハン*黒虎* 白虎  

憲孝は「パーチュー、 オーハンは 「相打ちの先」をどのように取るかが主眼である。空手に先手なしは武道家の

精神を問う言葉であり、 いざ立ち会いとなったら、どうすれば先手を取るかを忘れると血は水になる。勝負はそこで

決まってしまう。パイ クー*ヘイクーはいわゆる虎拳であり、指の鍛錬が行き届いていない者には無理な技である。」

と言った。

 

3 上級術技

安南1*安南2

4代目が最も得意とした 技である。3代目はチンクチのかからぬ稽古をしている者にはこの技を教えてはならない。

貫手、甲受け、甲打ち、 蹴り、特に2の法には寸腿(近間の鋭角な蹴り)なる難しい技がある。1の法は華やかな

見映えのある技であるが 2の法はむしろ実戦的で味わい深い。

 

4 相伝

白鶴(劉衛流パイ ホー)*白鶴(劉衛流白鶴ハッカク)

「パイホー」(白鶴)で ある。形而上の内面性が出せなくては味も素っ気もない。武道の型もこの域まで達すれば

芸術的ですらある。戦 前、呉賢貴なる中国の人が同名の型をよくした。宮城長順は「キーキータンメー」と呼んでいた。

鶴拳のひとつであること は確かである。一度見たことがあると、3代目も4代目も語っていたが、鶴翼の開き方が

劉衛流とは逆であった。 劉衛流は内から開くが呉のそれは外から閉めてくるところが違った。呉は玉城寿栄の世話に

なった礼にこの技を授け たとされる。呉賢貴の白鶴は比嘉世幸、福地清幸、長堂光安と伝わり、いつの間にか5代

憲児のところに伝わって きている。

 

「古武道(段のもの~カ ラワザ<唐技か?>)」

 

1 棍の部

クボーの棍*カーティン の棍*劉龍の棍*短棍(耳切れ棒)*鍚杖(サクグサン)

 

2 釵の部 釵1の段* 釵2の段

本来「釵は簪」の義であ るとか、形状が似ているところからそのように命名されただろうが、4代憲孝は泣きたく

なるほど振らされたとそ の修得の難しさを語った。

 

3 二丁鎌

鎌を武器にして、型に仕 上げるには武道家の何十年にもわたる工夫研鑽があった。合掌三段の位*天地の位*沖天の位

   満帆の位*違い羽の位* 卍の位*静波の位とそれぞれの構えに、個々の名称があり、両腕の力を等しく鎌に

 働かせるところにコツ がある。

   

4 団牌―藤牌(ティン ベー)

 

 

牌とは盾のこと、それを 左に2尺ほどの短棒あるいは短剣(無反り)を持って構える。憲里はその名手で

あったと3代憲忠はしば しば語っていた。4代目は真萱で手作りの牌を造ってよくやった。

 

 

5 眉尖刀(ビセント ウ)

 

長巻き、すなわち大薙刀 のことであり、刀技のできぬ者には到底修得は不可能な代物である。弁慶の大薙刀を

想像すればよい。

 

6 櫂の法

 

眉尖刀をアレンジしたも のと伝えられる。禁武政策を採っていた琉球王国への武具の帯入はできなかったため、

劉龍公が特に工夫して伝 授したと言われている。

 

7 鉾 槍術1*槍術2

 

槍術1の技は劉龍の棍に 酷似している。「石突き」の跳ね上げ、繰り突きが劉龍の棍に残されているところから、

眉尖刀のアレンジを連想 させるものがある。槍術2もカーテインの棍に酷似する。言うなれば「手槍」で狭隘な

室内での戦闘を念頭にお いて案出されたと考えられる。

                               (仲井間憲児)



劉 衛流空手古武道協会           
   劉 衛流の歴史               グ ラントキャンベル師範  

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